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学べる!ふるさと唐津学!

末盧館関係 古代の森関係 唐津城関係
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末盧館(まつろかん)関係
菜畑遺跡(なばたけいせき)が、最古(さいこ)稲作遺跡(いなさくいせき)って、本当(ほんとう)ですか。どうしてわかるのかな?
菜畑遺跡(なばたけいせき)からは、(こめ)炭化米(たんかまい))、農具(のうぐ)、そして水田跡(すいでんあと)()つかっています。そのことで、水田耕作(すいでんこうさく)(いとな)まれていたことが()かります。また、一緒(いっしょ)出土(しゅつど)した土器(どき)から縄文時代(じょうもんじだい)()わりごろで、科学的(かがくてき)分析(ぶんせき)では(やく)2,500年前(ねんまえ)~3,000年前(ねんまえ)ともいわれ、日本(にほん)(もっと)(ふる)稲作遺跡(いなさくいせき)だと確認(かくにん)され、(くに)史跡(しせき)になっています。
彩文土器
彩文土器
(さいもんどき)
(こめ)()はどこでうまれたのかな。
現在(げんざい)(つく)られているお(こめ)原種(げんしゅ)は、中国(ちゅうごく)長江(ちょうこう)下流域(かりゅういき)発見(はっけん)された稲作遺跡(いなさくいせき)から、その(ちか)くではないかと(かんが)えられていましたが、近年(きんねん)長江(ちょうこう)中流域(ちゅうりゅういき)遺跡(いせき)発見(はっけん)され、(やく)12000年前(ねんまえ)には、稲作(いなさく)(はじ)まっていたといわれるようになりました。そこで、長江(ちょうこう)中流域(ちゅうりゅういき)がその原産地(げんさんち)(かんが)えられています。
その当時(とうじ)()んぼはどんな(かたち)をしていたのかな。
菜畑遺跡(なばたけいせき)では、枝状(えだじょう)谷水(たにみず)利用(りよう)した水田(すいでん)であり、(やく)20㎡~30㎡の(ちい)さい水田(すいでん)で、(あぜ)矢板(やいた)(くい)()たれていました。末盧館(まつろかん)ではそうした復元水田(ふくげんすいでん)()ることができますよ。
竪穴住居のジオラマ
竪穴住居(たてあなじゅうきょ)
のジオラマ

末盧館(まつろかん)」といいますが、邪馬台国(やまたいこく)唐津(からつ)関係(かんけい)は。

邪馬台国(やまたいこく)は、中国(ちゅうごく)歴史書(れきししょ)魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に()かれた、3世紀頃(せいきごろ)日本(にほん)にあった(くに)名前(なまえ)で、この地方(ちほう)当時(とうじ)中国(ちゅうごく)(ひと)からは「末盧国(まつろこく)」と()ばれていたようです。しかし、この地方(ちほう)(ひと)が、どのように()んでいたかはわかりません。

その()奈良時代(ならじだい)になると、この地方(ちほう)は、松浦(まつうら)()ぶようになります。

菜畑遺跡(なばたけいせき)では、どんな生活(せいかつ)をしていたのですか。
菜畑遺跡(なばたけいせき)では、発掘(はっくつ)によって、稲作(いなさく)だけではなく、縄文時代(じょうもんじだい)から(つづ)いていた狩猟(しゅりょう)漁労(ぎょろう)採集活動(さいしゅうかつどう)とともに、畑作(はたさく)動物(どうぶつ)()うこともおこなわれていたようで、(ぶた)(ほね)出土(しゅつど)しています。とても、(ゆた)かな生活(せいかつ)をしていたようですよ。
古代復元水田
古代復元水田
(こだいふくげんすいでん)