HOME > 学べる!ふるさと唐津学!

学べる!ふるさと唐津学!

末盧館関係 古代の森関係 唐津城関係
旧高取邸関係 歴史民俗資料館 曳山展示場
唐津城関係
唐津(からつ)という地名(ちめい)はいつ()まれたのですか。

この地方(ちほう)(ふる)名前(なまえ)は、末盧国(まつろこく)というのですが、これは、中国(ちゅうごく)()(くに)があった(ころ)に、()ばれていたと(かんが)えられるものです。奈良時代(ならじだい)になると松浦(まつうら)という地名(ちめい)が、この地方(ちほう)呼称(こしょう)として(あらわ)れます。以後(いご)、この松浦(まつうら)は、この地域(ちいき)(ひろ)地域名(ちいきめい)として使(つか)われます。

唐津(からつ)(からつ)という地名(ちめい)は、文献(ぶんけん)では、大宰府(だざいふ)安楽寺(あんらくじ)草創日記(そうそうにっき)に出てくる「辛津(からつ)」が(もっと)(ふる)いもので、永保(えいほう)三年(さんねん)(1083)です。でも、唐津(からつ)()いたものは、もっと(あと)で、有浦文書(ありうらぶんしょ)の1368(ねん)、や大聖院(だいしょういん)仏像(ぶつぞう)胎名(たいめい)()かれた1371(ねん)で、十四世紀後半(じゅうよんせいきこうはん)室町時代(むろまちじだい)にならないとありません。

これが、広域(こういき)唐津(からつ)という意味(いみ)でつかわれるのは、やはり、江戸時代(えどじだい)になって、肥前唐津藩(ひぜんからつはん)となってからのようです。それまでは、唐津村(からつむら)という(ちい)さな地域(ちいき)名前(なまえ)だったようですよ。

唐津城(からつじょう)天守閣(てんしゅかく)がなかったと()きましたが、ほんとうですか。

唐津城(からつじょう)築城(ちくじょう)(かん)しては、様々(さまざま)(せつ)があります。
一般的(いっぱんてき)には、慶長(けいちょう)(ねん)から5(ねん)かけて(つく)られたといわれていますが、これは、寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)による江戸初期(えどしょき)縄張(なわば)りや城下町(じょうかまち)(ふく)めた全体(ぜんたい)(はなし)(かんが)えられ、天守閣(てんしゅかく)だけの(はなし)ではありません。

寺沢時代(てらさわじだい)絵図(えず)正保絵図(しょうほうえず)をはじめに、江戸時代(えどじだい)(つう)じて、30枚近(まいちか)くの絵図面(えずめん)全国(ぜんこく)(のこ)されていますが、そのいずれにも、天守閣(てんしゅかく)(えが)いたものはありません。このことからも、天守台(てんしゅだい)(つく)ったものの、天守閣(てんしゅかく)()てられなかったようです。ちなみに、現在(げんざい)建物(たてもの)は、昭和(しょうわ)41(ねん)()てられた(あたら)しい天守閣(てんしゅかく)です。

唐津城
唐津城(からつじょう)

唐津藩(からつはん)は、どんな大名(だいみょう)(おさ)めたのですか。福岡(ふくおか)とか佐賀(さが)(ちが)うところは。

唐津(からつ)は、初代(しょだい)寺沢氏以後(てらさわしいご)大久保氏(おおくぼし)松平氏(まつだいらし)土井氏(どいし)水野氏(みずのし)小笠原氏(おがさわらし)六家(ろっけ)大名(だいみょう)が、(なが)(いえ)で74(ねん)(みじか)(いえ)で13(ねん)支配(しはい)しました。唐津藩(からつはん)西国諸藩(さいごくしょはん)監視(かんし)海外(かいがい)との窓口(まどぐち)であった長崎(ながさき)(ちか)いこともあり、重要(じゅうよう)(はん)として、幕府(ばくふ)中枢(ちゅうすう)になる徳川家譜代(とくがわけふだい)大名(だいみょう)()()わり統治(とうち)することになりました。

その(てん)が、外様大名(とざまだいみょう)として江戸時代初期(えどじだいしょき)から幕末(ばくまつ)まで(おな)大名(だいみょう)支配(しはい)した、福岡藩(ふくおかはん)佐賀藩(さがはん)とは(ちが)(はん)となったのです。

唐津藩政期の甲冑
唐津藩政期の甲冑
(からつはんせいきのかっちゅう)

唐津城(からつじょう)(やま)(うえ)にありますが、標高(ひょうこう)はどのくらいですか。そして、階段(かいだん)がたくさんありますが、いったい何段(なんだん)あるのですか。

唐津城(からつじょう)は、松浦川(まつうらがわ)河口(かこう)にあった、満島山(みつしまやま)という砂丘(さきゅう)によって陸続(りくつづ)きになっていた(しま)()()み、河口(かこう)(なが)れと砂丘列(さきゅうれつ)掘割(ほりわり)にうまく利用(りよう)して(つく)られていて、その中心(ちゅうしん)本丸(ほんまる)に、満島山(みつしまやま)利用(りよう)しました。

この(やま)は、標高(ひょうこう)40(めーとる)程度(ていど)あり、その(うえ)に30(めーとる)天守閣(てんしゅかく)()っているので、展望台(てんぼうだい)は約70(めーとる)程度(ていど)あることになります。公園(こうえん)になり、(みな)さんが(のぼ)れるように階段(かいだん)をつくりましたので、天守閣(てんしゅかく)まで343(だん)ありますよ。(かぞ)えながら(のぼ)ってみてください。

初代(しょだい)寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)は、様々(さまざま)事業(じぎょう)(おこな)った殿様(とのさま)だとききましたが、どんなことをやったのですか。

寺沢氏(てらさわし)美濃国(みののくに)現在(げんざい)岐阜県(ぎふけん))のひとで、豊臣秀吉(とよとみひでよし)家臣(かしん)として有能(ゆうのう)仕事(しごと)をこなした(ひと)でした。秀吉(ひでよし)は、名護屋陣(なごやじん)にあったとき、この寺沢広高(てらさわひろたか)に、唐津(からつ)(おさ)めるように(あた)え、江戸時代(えどじだい)になって徳川氏(とくがわし)からも、初代(しょだい)唐津藩主(からつはんしゅ)としてこの()支配(しはい)することが(みと)められました。

寺沢氏(てらさわし)当時(とうじ)両国支配(りょうごくしはい)最初(さいしょ)として城下町(じょうかまち)形成(けいせい)着手(ちゃくしゅ)し、唐津城(からつじょう)縄張(なわば)り、河川改修(かせんかいしゅう)新田開発(しんでんかいはつ)など(おお)くの都市計画(としけいかく)実施(じっし)しました。そのひとつが、街道整備(がいどうせいび)新田(しんでん)塩害防止(えんがいぼうし)のための(まつ)植林(しょくりん)だったといわれています。現代(げんだい)(つづ)く、唐津(からつ)景観(けいかん)基礎(きそ)(つく)った人物(じんぶつ)といえます。