旧高取邸(きゅうたかとりてい)は、明治時代(めいじじだい)~昭和初期(しょうわしょき)に石炭開発(せきたんかいはつ)で財(ざい)を成(な)した高取伊好(たかとりこれよし)(が建(た)てた建物(たてもの)です。高取氏(たかとりし)は、唐津(からつ)のお隣(となり)の多久藩(たくはん)の出身(しゅっしん)の人(ひと)で、もともと、多久藩(たくはん)の儒学者(じゅがくしゃ)の家(いえ)に生(う)まれました。学問(がくもん)の盛(さか)んな多久(たく)の当時(とうじ)の武士(ぶし)としての、高(たか)い教養(きょうよう)を持(も)った人(ひと)でした。
建物(たてもの)を建(た)てた、高取伊好氏(たかとりこれよしし)は、江戸時代(えどじだい)の武士(ぶし)の教養(きょうよう)をもった人(ひと)であり、特(とく)に多久藩(たくはん)はそうした学問(がくもん)が盛(さか)んであって、伊好氏(これよしし)は武士(ぶし)のたしなみとしての茶(ちゃ)、能(のう)に精通(せいつう)していたようです。
旧高取邸(きゅうたかとりてい)の庭(にわ)を、大名屋敷(だいみょうやしき)や他(ほか)の明治期(めいじき)の建物(たてもの)の庭(にわ)としては、そんなに大(おお)きいものではありません。しかし、いくつかの特徴(とくちょう)があります。そのひとつが、接客(せっきゃく)のための大広間棟(おおひろまとう)の二階(にかい)から見(み)た景観(けいかん)です。遠(とお)く、唐津湾(からつわん)を一望(いちぼう)できる空間(くうかん)は、まさに壮大(そうだい)な借景(しゃっけい)としての工夫(くふう)がされたものです。
邸宅内(ていたくない)には、26種類(しゅるい)、70枚近(まいちか)くの杉戸絵(すぎとえ)があります。杉戸絵(すぎとえ)とは、杉(すぎ)の板戸(いたど)に直接描(ちょくせつえが)かれた絵(え)を言(い)います。旧高取邸(きゅうたかとりてい)では、大広間棟(おおひろまとう)の座敷周(ざしきまわ)りを中心(ちゅうしん)に、黒漆框(くろうるしかまち)の枠(わく)のついた大型(おおがた)の建具(たてぐ)に、多(おお)く見(み)られるもので、襖仕立(ふすまじた)てとは違(ちが)う特徴(とくちょう)があります。描(か)いた作者(さくしゃ)はその落款(らっかん)から、水野香圃(みずのこうほ)という絵師(えし)であることがわかります。
香圃(こうほ)は京都(きょうと)の円山四条派(まるやましじょうは)の絵師(えし)で、ほかの作品(さくひん)はあまり知(し)られていません。旧高取邸(きゅうたかとりてい)では、花鳥風月(かちょうふうげつ)、中国(ちゅうごく)の故事(こじ)、能(のう)や狂言(きょうげん)を題材(だいざい)にした様々(さまざま)な絵(え)を描(か)きました。